私たちは圧倒的に間違っている



昨日、太平さんのインタビューを読んで感想というか支持の文章を書いた後から

なんだか息苦しくなった。

なにか腐ったものを食べてしまったみたいに、胸に異物感がぐるぐるぐるぐる。

何でなのか考えた。

「正しいこと」を提示しよう、とするニュアンスがそこにあったからだ。

政治的なことについての物言いは、難しい。



政治的なことについての物言いは難しい。

それは戦争やフェミニズムについても同じことが言える。

なんでかというとそれは、最終的に「私が正しいと思うこと」の論証し合いつまり

論証試合(うまい!)になってしまうから。


これが「好み」の問題だったらこうはならない。




「オレは卵かけごはんにバターをたらして食う」

「お前間違ってる!あの脂肪分の塊を・・・邪道な!

卵かけごはんは醤油onlyに決まってるだろ」

「私はめんつゆで」

「ありえない。お前ら二人ともすぐに醤油onlyに変更。

それがお前らのため。決定」


こうはならない。(当たり前だし、ひどすぎる喩え…


「私が正しいと思うこと」を<相手に提示する>ことからは広がりが生まれない。

そこからは他のヒトへとつながることはできない。

そこには「正しい自分」だけがいて、

他のヒトの意見を聴いてみようという方向には向かわない。


もしかしてもしかすると、オイラすごくバカなんじゃないか。

じつはすごく間違ってんじゃないか。


と思う瞬間が日に何度もやって来て、その度に頭を抱えて「・・・あうっ!」となる。

けれどもそのときの無力感が、同時に呼吸を楽にしてくれる。

おいおい、オイラ、実は自由じゃんよー。と思わせてくれる。

何からの自由?

「私は正しい」ということからの自由。

間違えることができる自由。

間違ったことををしてもいい自由。


私たちはいつも圧倒的に間違っていて、

だから他人を知りたくなる。話が聞きたくなる。


自分が正しいことを提示することは普通「正義」という名で呼ばれていて、

その中に他人とつながれるスキマはあんまりない。


間違っていることから、物事は始まっていく。



しかし政治とか行政は「正しいこと」をしなければいけない、

というテーゼに縛られるなので

(本当はそうではなく、「妥当なこと」をめざすのだが)

それについて語ると、ふと息苦しくなってくるのです。



しかしわかりにくい文章だ。

もうちょっと何とかしよう。

ところで「私たちは圧倒的に間違っている」という言葉、

実は大阪の精華小劇場(なんば)で行われている

精華演劇祭の、タイトルです。

精華演劇祭 vol.3【NPO法人 京都舞台芸術協会企画】

「私たちは圧倒的に間違っている」

http://www.seikatheatre.net/play-next.html

昨日急に思い出した。

素晴らしいネーミングだ。