このようなやり方で三〇〇年の人生を生きていく



このようなやり方で300年の人生を生きていく―あたいのルンルン沖縄一人旅

このようなやり方で300年の人生を生きていく―あたいのルンルン沖縄一人旅



小川てつオさんのことは名前しか知らなかった。当時の吉田寮やブンピカ(※1)、きんじハウス(※2)などの京大アンダーグラウンド文化の中心にいた人だ、という知識だけがあった。在学当時は立て看板や教室の黒板やビラ、それから先輩の会話の端々にその人たちの名前を聞いていた。めちゃくちゃだけどなにか見逃せないようなその熱さを、芝居しながら横目で「この人たちの感じは、なんだろう?」とずっと気にしていたように思う。京都を離れてもう随分経つ。在学していた当時ではなく、遅れて今出会い始めていることが不思議だ。とても貴重に思う。


(※1京大文学部学生控室のこと。現在も24時間自主管理が行われています。やみいち行動の主な活動場所)


(※2取り壊し前の今西錦司記念館を学生らが「きんじハウス」と名づけスクワット(住宅占拠)した10年ほど前の事件)


先日、友達に誘われて京都文化博物館柳宗悦展を観た(面白かった。今月29日まで)。

観ながらまず思い出したのがこの本だった。

最近「作為を無くしていく」ことはどういうことかとよく考えていて、

その場所でてつオさんの文章と柳宗悦が重なった。


展示の中に、ある器とその横に柳の文章が並んでいた。文章の中に突如「蓋は手を呼んでいる。」という一文が、ごろんと無造作に置かれていた。柳には、その器の蓋が「使ってみないかい?」と手を呼んでいるのが、「確かに」見えたのだ。そのことがじかに伝わってきた。細かい文脈は忘れたが、その文に作為のかけらがまったく感じられず、淡々としていて、それでいてこんな表現ができることに、驚いた。




わざとらしさを排除しようとしている、その方向性がよく理解できる(88p)




19才のてつオさんは沖縄でたくさんの人と出会い、飯を食わせてもらったり銭湯に行ったり喧嘩したり疲れたり将棋を指したりする。知り合った人の展覧会で中上健次(※)に会ったりする。そしてものすごい勢いで、似顔絵で儲けていくのだ。


(※中上健次は「いきなり現れて人を茫然とさせる」人のようだ。昨日読んだ宮沢章夫がやはり新宿のサウナで中上健二に会った不思議を何ページも延々と書いていた(『牛乳の作法』)。)


最後に、10年後に沖縄を再度訪れた時の日記がある。

10年前出会った人たちの何人かは亡くなっていて、その死と出会い、さまざまな人と話す。




「死の後を生きるということは、続きをつくるということだ」(130p)

この10年後日記がしみじみととてもいい。そしてそれが無我夢中グルーヴ感の溢れる19才日記の存在を照らし返し、お互いを際立たせている。




読むたびに好きな場所が変わる、あるいはどこもかしこも面白い。

面白い・下らない・生々しいものたちが絶妙なバランスで隣り合っていて、あちこちでたらめに面白いのだ。今回面白かったのは沖縄ではオバサン・オバアがとても元気で、それに比して男がみんないじけているという1月17日の日記だった。


あと「部活を止めたことの理由は、誇張である。」というプチ赤裸々な一文が何度読んでもむしょうに好きだ。




読み進める中で、


あたいは、『やりたい事をやる』 という事だけが、社会や他人に対して『はげまし』のメッセージになると思う(43p)



というアナウンスメントが、じわっとリアルに、響いてきた。




しかし何故300年の人生、なのかは最後までわからず、「300年の人生」はどんな色なのか、どんな風景があるのか、読むたびに夢想してしまうのだ。