書くことについて

書くことについて最近よく考える。何かを書こうとするときの、やり方、カラダの体勢、みたいなことについて。


文章は、そのときのカラダの状態にモロに引っ張られる。

疲れていたり何か気になってることがあったり、マイナスの感情があったりするとその影響をダイレクトに受けてしまう。でも日々の生活はそういうことを抜きにして考えられないので、やっかいだなぁと思う。それが面白いところでもあるけれど。


最低で最高の本屋 (仕事と生活ライブラリー)

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その期間は、あまり人にも会いません。自分の気持ちが波立っていると書けないから、できるだけ人に会わないで、余計なところにも行かないで、なんとなく書く世界に自分をもっていきます。24時間ずっと、これから書く文章のことを考えています、寝ているときもずっと。じっと座って考えるのではなく、考えながら日常を送るのです。恋愛のように誰かのことを思い続けているような感覚に近いのかもしれませんね。・・・書こうと思っていることを頭の中で発酵させていくような感じです。机の前に座ったときには、頭が一杯でもう書くしかない状態になっている。あとは手を動かして、考えたことを書くだけ。そういう状態にもっていければいちばんいいですね。





機能する文章を書くためには、「何のために書くか」という結果をイメージすることが必要だ、というメッセージを、手をかえ品をかえ伝えてくれる本。


「何のために書くか=誰にどう思って欲しいか」という自分のおおもとの目的
(これを作者は「根本思想」と呼んでいる)
に、いつでも戻るべきだということ。


よく考えたら当たり前のことなんだけど、オイラは文を書いててしょっちゅう、このおおもとの目的を見失ってしまうから。


作者はむかし、進研ゼミで小論文を担当していた。
ある日受験生から「原稿用紙の使い方で、行の一番下のマスがカギカッコのはじめの方だけになってもよいのか、それともそのマスにカギカッコのはじめの方と文字を一緒に入れたほうがいいのか。減点の対象になるのか?」と質問を受ける。


作者はその子が志望する大学に問い合わせたり小論文関係者に聞いたりするが、「100%その年のその大学で減点はないとは言い切れない」という結論になる。


で、そのことを調べた結果も併記して、丁寧に「100%その年のその大学で減点はないとは言い切れない」という長い手紙を書いていた。そのときに、ある別の先生に、こう言われるのだ。


「その子が欲しいのは、安心だと思いますよ」


その子は初めての受験で不安で、そんな些細なことを聞いてきている。どんな小さな疑問でも答えが不明なら、不安材料になってしまうのだ。


そこに「100%その年のその大学で減点はないとは言い切れない」という長い手紙が届いたらどうだろう。そんなに大事なことだったのかとより不安になってしまう。行の一番下のマスのカギカッコをどうするか、なんて入試全体からすれば、ほんの取るに足りないことだ。


目的は、「安心を与える」こと。


作者は回答を文書でなく電話ですることにした。明るい声で「どっちでも合否に影響ないから大丈夫!安心して」と話す。生徒はとても喜んでくれ「これで安心して受験できます!」と明るく言ってくれたらしい。



「何のために?」を明確に意識して、そのために内容、表現、手段を工夫する。

いらないものは、ごっそり捨てること。