ハバナ・モード



久々に村上龍を読んで、アタマが「日本的なあいまいな情緒」批判モードに。その批判はそのままオイラ自身にきれいにアッパーカットを決め、自分KO。耳がイタイ。よくよく自分は情緒の人間なのだと思う。理性の人間には叶わない。いつも醒めていたいと思っているのに、情緒がせりだしてきてしまう。


調子がいいときや祝祭に臨むときは問題ないのだ。むしろ好都合だ。問題は調子が悪いとき、そして自分が認められていない場所=アウェーで戦うときだ。

ヨーロッパ先進国では、個人でも国家でも関係性の基本に対立がある。

日本社会では、対立は喧嘩とか仲たがいと誤解されやすい。それは意見が対立しているだけで、相手の存在を否定などまったくしていないのだが。


でもそうした冷静な視線を、日本的情緒が曇らせる。
「敵対か、さもなくば完全に従順に尽くす」ことしか、選択肢がないように思える雰囲気が醸成されやすい。危険だ。
そして従順に従うのが当たり前、という態度でいた場合には、ちょっとした保留や拒否だけで大きなネガティブサプライズとなってしまう。



自分の言動が相手にどのような印象を与えるのか、はそのまま「外交問題」だ。そこには利害があり、持ちカードがあり、駆け引きがあり交渉がある。

しかし黙っててもわかってくれる、という姿勢には、「交渉」の生まれる余地はない。



心意気とか誠意とか気前の良さというのは外交とは何の関係もないし何の力もない。




とても嬉しかったのは最初の章の文章。彼が「ハバナ・モード」と呼ぶ、難しいことにあたるときの姿勢のこと。


「何とかなるだろう」という漠然とした予感は、大事だ。落ち着いてそれを思うとき、それは余裕があるってこと。もちろんそれだけじゃダメだけど、それの有る無しは大きい。


まず、心のもっともベーシックな部分で「何とかなるだろう」と想像する。あきらめるという選択肢を消し、リラックスするためにとりあえず心の状態をポジティブに保つ。


そしていったんリラックスした後、危機の回避やプロジェクトの実行に向けて猛烈な努力を始める。


何とかなるだろう、という曖昧でポジティブな前提と、このままではどうしようもないという絶望との間に、わたしたちの努力のすべてがある。そして実は、曖昧でポジティブな前提と、救いのない絶望=不可能性の自覚、との広大な乖離から、個人としての希望のようなものが生まれる。またその断崖のような乖離からジャンプすることが、逆に努力のモティベーションたりえる。



ハバナ・モード (Men are expendable (Vol.8))

ハバナ・モード (Men are expendable (Vol.8))