人生をドラマに「する」こと
金スマの、大竹しのぶ特集(前編)を観た。
「いつ見ても波乱万丈」でなく、「知ってるつもり?」の方向性。さあ泣け、ほら泣けというイマドキの、過剰でウルサイ演出だ。内容は、大竹しのぶさんの「これまで明かされなかった」プライベートな人生についての<ドラマ>。
テレビを久々につけたらつい最後まで観てしまった。テレビ番組を最後までちゃんと観たのは数ヶ月ぶりだ(ピタゴラスイッチ除く)。
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Blogを書いていて、
自分のプライベートを開示することに関して最近いろいろと考えるようになった。
人生はドラマではないし、一幅の絵画でもない。
僕の好きなコンサルタントの岡本吏郎氏が、先日強く言っていたことだ。「人生をしっかり生きていくためには、できる限りドラマ的要素を排除することだ」
そしてサンボマスターも叫ぶ。「人生をドラマにはしない男」
自分の人生を<ドラマ>とすることは
だれでもつい無意識にしてしまうのではないか。またそれ自体は、心の奥深いところで必要ではないかとも思う。
しかしそれを他人に提示することはまた、別の話だ。
演出はいくらでも可能だ。ことばは便利なもので、あと付けで何とでも言えてしまう。
そしてその先には、自分の人生が<消費されてしまう>危険な感覚が付きまとう。
私生活がないような扱いを受ける芸能人の人たちにとっても、
大事な人との関係やそしてその死をドラマ化するなんてことは、何かそうとう確固とした思いがないとやれないだろう。
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先日友人と、自分のプライベートを開示することについて語った。
ドラマとなった人生によって自分が逆に捉われてしまう危険もあるし、
消費されることで疲弊してしまう危険もある。
一方でそのドラマに共感・共鳴したひとは味方となって、その人を応援してくれるだろう。
さまざまな人たちの視線と思いを、集め、背負うことは、諸刃の剣を手に入れること。
そういうこと全部ひっくるめて、「業が深い」ことだな、と友人は語っていた。
大竹しのぶさんはオイラにとって好きというより「ちょっと別格」な女優さんだ。
オヤジ世代にとっての吉永小百合が、こんな感じの存在だったのかもしれない。
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金スマの再現映像は、もちろん現実の話が劇的なエピソードだらけなのだろうが、それにしても過剰な演出に満ちていた。役者のステロタイプなリアクションはもはや古典的ですらあって、その演技がこちら側の感情移入を思いっきり妨げた。飯島愛らゲストはみんな泣いてなんか気持ちよくなってる感じで、ちょい複雑な気分だった。
そんな中で画面を見つめる大竹しのぶの抑制された、そして不思議な諦めに似たような表情が印象に残った。いま自分の人生の大事な部分を、他の役者が過剰な演技でドラマにしている。それを観ながらいま彼女は何を思っているんだろうと思った。このドラマ化の話が番組の企画なのか事務所の方針なのか彼女から出てきたものなのかはわからない。でも語弊を承知で言うならば、僕はそんな彼女の表情に勝手に感じてしまっている。
わたしは、こうやって生きていくんだ。
ドラマの世界に生き、ドラマに悩み、ドラマに救われ、ドラマで食っている。
そしていま、自分自身もドラマとなって。
わたしはこうやって生きてきた。
そしてこれからも、こうやって生きていくんだ。
そんな、どこかポジティブさともつながっているような、深い不思議な諦めを。
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有名人、世間の注目を集めてしまった人のそういった覚悟は、想像するに余りある。よしもとばななさんが「自分はもはやすべて開示するべきポジションにいる、イケニエだと思ってます」みたいな発言をどこかでしていて(大槻ケンヂさんも)、そのときもそうした大変さはぼんやりと伝わってきたけれど。
膨大な数の人の視線と気持ちを受け止め、背負う人たちの、
大変さと、役割、そして深い深い業を感じる。
こんな文章を書くオイラもまた、そんな彼女の業に、してやられているんだろう。
後編は2月10日。