[]戸田誠二を読んで


ある日仕事で現場を原付で走っていた。

交差点の角っこで人がバタバタしてるな…と思ったら車椅子の人が倒れてしまって5人くらいの人が集まっていた。

原付を止めて駆け寄ると「あ、あの兄ちゃんが力強そうだからあの人にやってもらった方がいいよ」という声がした。車椅子の人が落ちてしまって、車椅子に登ろうとしていた。

近づいて、彼の腰のベルトをつかんで持ち上げて車椅子に乗せた。

「どうもありがとう」車椅子の人がお礼を言ってその場は終わり。集まった5人くらいの人たちが三々五々散っていき、オイラも原付にまたがり再び走り出した。ふと振り返ると、車椅子が何もなかったかのように横断歩道を進んで行った。



かなり偽善ぽいのを覚悟して書くと、

オイラ含めみんな少し、解放された顔をしていたように思う。

ボランティアというのは、<損得抜きに誰かになにかをしようと思うこと>で、

普段自分のこと、家族のこと、会社のことで忙しい我々はおいそれと手出しできるものじゃない。

<よいこと>なんて恥ずかしいし、疲れる。



でもときどきそれに触れられると、世の中捨てたもんじゃねえというか。

なにかをしてあげることで、自分に<してもらっている>。

誰から?







先日紹介した、 『骨髄ドナーに選ばれちゃいました』を読んでいても思った。<よいこと>ってのはほんとに難しくなっている。「偽善」であることにみんなすごく敏感になっている。



<なさぬ善より、なす偽善。>



骨髄ドナーに選ばれちゃいました





「HappyBirthdayたんじょうびおめでとう」

戸田誠二『しあわせ』より)



この話の中で、主人公の誕生日を祝ってくれる人は誰もいない。友達も恋人もいない。それどころか誕生日に残業だ。でも同僚なんか結婚記念日に徹夜してる。文句なんか言えたもんじゃない。



疲れた身体を引きずってセブンイレブンにいく。

手に取った雑誌を棚に戻し、ため息をつく。



その耳に、深夜のレジで話すにしては場違いな、嬉しいエネルギーに満ちた声が聞こえる。

「あ、あんまん2つ下さい。・・・今子ども生まれて・・・

なんかうちのが急にあんまん食いたいとか言って」

「まあおめでとうございます!ちょっと待っててね」

それを聞いた店内のあちこちから「おお、おめでとう」「おめでとうございます」声がかけられる。「ありがとうございます」

「はい、あんまん。お金はいいです」「えっ?」「出産祝い」「あ、ありがとうございます」



そのやり取りを聴いた主人公は、思い切って声をかけてみる。

「お、・・・おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます」

主人公は店を出る。駆け出す。

まるで自分の誕生日がお祝いされたみたいに。







ここでお祝いされているのは、「おめでとうございます」と言った主人公自身だ。



存在を祝福することで、天から祝福されること。

祝うこと、言祝ぎ(ことほぎ)ってのは、本来そういうことじゃなかろうか。


公団住宅より神崎川を