「It is written there」を観た

山下残さん演出、ダンス公演「It is written there」を観た。

正直者の会や、残さんの舞台について語るときにはいつも、なんだか自分がものすごくばかみたいに思えてくる。それは「ことば」がなにを表せなくて、どんな時どういう風に無力で、また有力でありうるか、を突き詰めている舞台(作品)に対して、生半可な気持ちで紡がれることばがどれほど無力でありうるのかということを、ぐらぐらと思い知らされるから。

知らない人のために説明すると、公演前に100ページにわたるパンフレットが配布される。そこには日英対訳のテキストが書かれていて、舞台上でページ数が読み上げられ、観客はそれに従ってパンフの該当頁に目を通す。するとそこに書いてあることが舞台上で行われる、というダンス公演。

テキスト(文字)と、身体(舞台)は、つねに、お互いをねじ伏せようとして死にものぐるいで、居る。文字の力はすごいのだと、先日、京大の過去問で読んだ文章で、文字を読むことであらゆる感覚に曇りが生じる、感覚や技術は純粋でなくなり、作る料理はもはや以前の感動を呼び起こさず・・・というような記述があった。そういえば、シュタイナーは9歳くらいまでは文字を教えないように、触れさせないようにする、らしい。純粋知覚、のため?「音を、文字を踊る」オイリュトミーを創始した人らしい、とか、ふらふらと思い出していた。
読まれた手元のテキストは、目の前で行われている現象を、凌駕しようと、つねに、している。でもテキストだけを読んでいるのなら、舞台をわざわざ観に来た意味がない。そう思い、舞台に眼をこらし、そこで行われていることを必死で感じようとするのだけれど、常に意識は手元のテキストから、ひも付きで拘束されている。そこから逃げようとする眼。そして、ダンサーの身体、声、そして眼も、すごい力で、自由に、自由で、あろうとしていて。

一例を挙げると。舞台上で、二人のダンサーが次々とミニダンスを転換していく。その転換は、手元のテキストのフローチャートに沿って行われる。同時に荒木さんが「おかん」の歌を歌っていて、その詩も日英対訳で書かれている。「おかん」の歌がとても良いのでその詩を読もうとするのだけれど、同時にすごい勢いでダンスは展開していって、一瞬目を離すといまチャートのどこか分からなくなる。もちろんチャートなんか目を離しても良いのだけれど、チャートの言葉と舞台の動きのギャップがまた何とも言えない。「おかん」の歌は佳境に入る。同時に英訳もすごく気になる。ふとチャートを読み迷う。待ってくれない展開。叫ぶ荒木さん。

思わず笑って、そして笑ってしまった瞬間は一番無防備で、「しまった」と思った瞬間に、声に、眼に、心の一番奥まで飛び込んでこられて、やられてしまっている。

あふれる情報量、は何時だってあるけれど、
それがテキスト化されるということは、
なんというか言語化されすぎてうそみたいだ、と踏みとどまりたい気持ちと、
テキストが持つ強烈なイメージに翻弄される快感と。

ラスト前の破滅と怒り、から、祝福の雪、そして茫然。美しかった。
贅沢な時間だった。

僕は初演の「そこに書いてある」は観てないけれど、造形大の「せきをしてもひとり」(残さんの一人舞台)は観ている。「テキストをめぐるシリーズ」は、Specialだと思う。
観られて幸せでした。



今週末は、造形大で、ジュネをめぐる舞踏、旧友の夏目君が舞台監督をしている。

そして、久しぶりの正直者の会、本公演が、大阪・精華小劇場で。

舞台をたくさん観まくろうと思いつつ、全然観られていなかったので(MONOも本多くんが出るのに観に行けなくてがっくり・・・。唯一行けたはずの火曜・・・休演だと!)、とても楽しみ。



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