正直者の会公演「届かない所」

先週末の試験も無事終了。試験後、なぜかバッティングセンターに行くのが恒例になりそうだ。
解放感を身体で表現したいのだろうか。いったい誰に。
でも最近はなかなか身体を動かす機会がないので、良いことだ。

そういえば先々週末、正直者の会「届かない所」を観たときの感想を書こうと思って、忘れてた。



小学生のとき、なぜかテレビで「天空の城ラピュタ」を観ていたある明け方、あまりの悔しさに急に泣けてきてしまったことがあった。
目の前で展開されるスペクタクルの中、シータやパズーやムスカや海賊たちが、画面狭しと魅力を振りまいてた。それを画面の前で、ただ三角座りして観てるだけの、自分。

「なんで僕はこの世界にいて、向こう側には行かれへんのや。」

言葉にすればそういうことだった、たぶん。虚構だから当り前なのだが。
あとで、「スターウォーズ」ファンの間で、そういう感情が「Love-in」と名前を与えられ呼ばれている、ということを知った。
別にパズーになりたいわけでは全然なく、ただその美しい世界にじかに触れてみたかった。
飛行石に触ってみたかったし、海賊船の夜の見張りをしたかった。
そして悔しさと同時に、ラストの音楽の中飛び立つフラップターを見て「終わるな、終わるなよ。」と必死で思った。
そうしてると父親が起きだしてきた。尻をボリボリかきながら。大きな欠伸。

なんで、この眼前の世界の中に、僕はいないし、行かれへんねん。



「届かない所」が引き起こしたのは、そういう気持ちだった。

リズムや韻でつながりあう言葉たちから展開していく先に
また言葉たちが、舞い、踊ってた。
バス停とバスとおばあさんの会話は美しかった。

ラストかと何度も思わせつつ、終わらずさらに続く展開が
その世界がいつまでも終わらないような気分がして、その幸せを感じつつ
しかしその世界に自分はいない、行けないことは(虚構だから)当たり前なのに、たまらない感じだった。

二度目のカーテンコールを観たとき、とうとう「終わってしまったなあ。」と茫然とした。

劇場を出て、外に出て、電車に乗り、現実があり、
現実よりはるかに、はるかに、はるかに凝縮されたあの世界に、いつまでも、居たかった。
「た、ち、つー」

でも、居られない、もう二度と行けない。
もう「届かない所」がそこにあった。

穂村弘の言葉を借りれば、
「この世界のリアルに一瞬でもさわれたことがとても嬉し」くて、あまりに淋しかった。
だから終わってしまわないでほしかった。


役者さんはみな素敵だった。二度見られて、日によって、調子に乗ってアドリブしたり細かい変化をしているのがよくわかった。もちろん舞台はそういうものなのだけれど、客として何度も観てそれがわかる、というのは贅沢なことだ。オペの至福ってありますね。

藤原大介氏は、何故喜ぶとき肛門を押さえて飛び跳ねていたのか。
それにしても豊島&朝平ペアは史上最凶だった。女子高生がつるんで、傍若無人に大声で他人をいじり始めるあの感じは、手のつけられない感炸裂だった。こわいもんなしだ。二人ともどこまでも本気で嬉しそうで、それがまた恐ろしかったのだ。